今日は雲一つない晴天に見舞われた。バレンタインも間近に迫る休日。先輩の彼女として初めて迎えるバレンタインデーを最高の思い出として残すべく、今日は一日かけて余念を残さない完璧な準備をするつもりだ。
《桜、朝飯作って置いておいたから食べてな》
 先輩はバイトに行くため今日は家にいない。なんでもコペンハーゲンではバレンタインにお得意様へチョコレートをプレゼントするのだそうだ。酒屋兼バーということもあって本格的なお酒を使ったチョコを作るらしい。その手伝いに先輩も駆り出されたというわけである。先輩と今日一日を過ごせないのは残念だが、バレンタインを目前に控えたわたしにとってはむしろ好都合だ。今日一日は、先輩にあげるチョコのことだけを考えよう。
「先輩、行ってらっしゃいませ」
 慌てて玄関まで先輩を追い、少しおどけながら笑顔で先輩を見送る。
「ああ。行ってくる」
 先輩はそう言って、顔をこちらに近付けるとわたしの頬に軽くキスをした。
「留守番はたのんだぞ、桜」
 それだけ言い残して先輩は去っていった。わたしは、放心状態のまま数分の間ぼぅとしながら立っていた。

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 先輩が用意してくれた朝食を食べ終え、先輩のバイト先へ持っていく差し入れを手早く作る。
「これで、よし」
 料理をタッパーに詰め風呂敷で包む。これで買い物に行く準備は整った。
「サクラ、おはようございます」
 居間の方に戻るとライダーが用意された朝食を食べていた。
「おはよう、ライダー。ごめんね、朝ごはん先に食べちゃった」
「起きるのが遅い私が悪いのでそれは構いませんよ。それよりサクラ、少し顔が赤くはありませんか?」
 そういえば、先輩からほっぺにチューされてからずっとぼぅとしている。
「大丈夫。それよりライダー、先輩のバイト先に差し入れを持っていくから留守番をお願いできる?」
 すると、突然ライダーがわたしのおでこを触って来た。
「サクラ、やはり熱があるみたいですよ。差し入れは私が持っていきますからサクラはゆっくり休んでいてください」
 ライダーが心配してくれていることはわかる。ただ今日だけは、わたしが行かなければ意味がない。
「わたしが行くから。ライダーは留守番してて」
「そうですか。しかし、やはり休んだ方が……」
「じゃあ、留守番よろしくね」
 有無を言わさず即座に行動に出る。居間を出て一旦部屋に戻り、買い物に必要なメモと上着を取って、玄関へと向かった。そこに、ライダーと姉さんが立っていた。
「桜、ライダーから聞いたけどあんた熱があるんだって?」
「ありません。姉さん、そこをどいてくれますか?」
 靴を履いて、無理矢理姉さんとライダーの間を通ろうとした。しかし、姉さんに捕まり、姉さんはわたしのおでこを触った。
「部屋で休んでいなさい。かなり熱があるわ」
「嫌です。先輩の所に行くんです」
「おとなしくわたしの言うことを聞きなさい。桜は聖杯と繋がっていたのだから普通の人とは違うのよ。少し体調を崩しただけで魔力が暴発して死に至る可能性だってあるわ。桜が思っているより深刻な状態なのよ」
 確かに姉さんの言うとおりだ。だけど、それでも今日だけは……。
「サクラ、お願いです。自室でゆっくり休んでください」
「嫌っ。今日は先輩の所に行かなくちゃならないのよ」
 なんとか姉さんとライダーを振り払って外に出た。しかし、足下はおぼつかず視界もぼやけて見える。頭は沸騰するようにガンガンと痛みはじめている。非常にまずい、このままではこの場に倒れかねない。
《なんで、こんな大事なときに風邪をひくの》
 この日をずっと楽しみにしていた。今日は先輩に喜んでもらうために、最高のチョコレートを作ろうと張り切っていたのに、なんで……。
《これじゃあ、バレンタインに間に合わないよ》
 準備に残された日数は今日を含めて三日しかない。今日を逃せばもう……。
《行かなくちゃ》
 気持ちとは裏腹に、体は前に進まない。わたしは塀に寄りかかり、そのまま倒れ込んだ。
《うぅっ……先輩……》
 意識が朦朧とし、わたしの視界は真っ暗になった。

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 目を覚ますとわたしは、衛宮邸の自分の部屋のベットに横たわっていた。
「桜、目を覚ましたわね」
 ベットの横で、姉さんが椅子に座っていた。
「わたし、結局先輩の所には行けなかったんですね」
「ええ。門から出ようとしたところで倒れたわ。わたしたちが貴女をここまで運んで、差し入れはライダーに持っていってもらったわ」
「そうですか……」
 時計を見るとわたしが倒れてから5時間が経過しようとしていた。
「今は魔力も安定してるけど、一時は危ないところだったわ。三日くらいおとなしくしていれば、元気になるはずだわ。それまでは絶対安静。いいわね?」
 三日……。そんな…三日も経ってしまったらバレンタイン当日になってしまう。
「姉さん。それはいくらなんでも無理です。わたしはっ……痛っ!」
 体を起こそうとすると全身に電気的な刺激が走った。節々も動かし辛く、体が鉄になったように重い。
「そういうことよ。あと三日は、そんな調子が続くと思うわ。少し強い魔力の安定剤を打った副作用なのよ。桜には悪いと思ったけど、これしか貴女を救う手が残されていなかったわ」
 わたしはそんなにも危険な目に遭っていたのか。姉さんやライダーがわたしを心配してくれたことを考えると、姉さんに何も言い返せなかった。
「姉さん。心配かけてごめんなさい」
「いいわよ。ちゃんとあんたが無事でいてくれたんだし、姉として当然のことをしただけ。それに、さっきまで桜の側でずっと看病していたのは士郎だから、お礼は士郎に言いなさい」
 先輩が!?先輩はバイトのはずじゃ………
「わたしは帰るわ。何かあったら必ず連絡するのよ」
「ああ。助かったよ遠坂。今日は本当にありがとう」
「今度料理でもご馳走してくれればそれでいいわよ。じゃあ、後は任せたわ」
 それだけ言い残して姉さんはわたしの部屋を後にした。そして、先輩が姉さんの座っていた椅子に腰をおろした。
「先輩、どうして……」
「ライダーがバイト先まで来てさ、桜が倒れたっていうから慌てて帰ってきたんだ。バイトはライダーに代わってもらったよ。オトさんもライダーとは親しいみたいだったし、すんなりと受け入れてくれたから安心していいぞ」
 ライダーには悪いことをしてしまった。姉さんへのお礼も合わせて、二人には飛びっきり料理を作らないと。
「あのさ、桜……」
 先輩が言いにくそうに話を始めた。
「ライダーがこの紙をずっと大事そうに桜が握ってたって言うんだ。それで、帰りにここに書かれたモノを買って帰ってほしいと頼まれたんだ」
 先輩が持っている紙は、わたしが先輩にあげるバレンタインチョコレートを作るために買うものをメモした紙だった。
「ごめん。さっきから桜の気持ちを踏みにじることばっかりしてるけどさ、俺このメモを見たら居ても立ってもいられなくなって、桜の代わりにここに書いてあるものを買って来ちゃったんだ。きっと桜は俺を驚かそうと思って、今日一日かけてチョコを作ってくれようとしていたことはこの紙を見て一目で分かった。だから、桜の気持ちが嬉しくてさ」
 先輩の言葉を聞いて、わたしは思わず泣き出していた。今日、先輩に会いに行けなかったのが悔しくて、買い物ができなかったのが悔しくて、先輩のためにチョコを作れなかったのが悔しかった。でも、姉さんやライダーそして先輩がわたしを心配してくれたことが嬉しくて、先輩がわたしのためにバイトから帰ってきてくれたことが嬉しくて、先輩がわたしの代わりに買い物をしてくれたことが嬉しかった。
「俺は桜が作ったチョコを食べたい。だから、早く良くなってな。治るまで俺がずっと側にいるから」
 そう言って、先輩は湯気をたたているおいしそうなお粥を手に取った。
「桜が起きたら、お腹がすいてるだろうと思ってさっきまで作ってたんだけど、食べるか?」
「はい。その、よく考えたらお腹ぺこぺこです」
「じゃあ、起きれるか?」
 私は上半身を起こそうと腕で支えながら起き上がろうとした。
「……痛っ!!」
 腕は全く曲がらず、全身に電流が駆けめぐって痛さのあまり結局横になった。
「これが遠坂の言ってた副作用だな。それじゃあ、こうするしかないよな」
 先輩は、お粥をスプーンで掬うと息でふうふうと冷ました。そして……
「桜、口を開けて。ほら、あーん」
 優しい手つきでわたしのあごを上げると、スプーンをわたしの口に近づけた。
《ぱくっ》
 わたしは無言でスプーンのお粥を食べた。もう、わたしの頭は真っ白でこのまま天国にでも行けそうだ。
「どうだ?おいしいか」
 先輩がわたしに向かって、そう質問した。
「その、緊張しちゃって……味がまるでわかりません」
 きっとわたしの顔は真っ赤だ。そんなわたしの様子を見て、先輩は微笑みを浮かべた。
「桜はやっぱり可愛いな。ほら、もう一回あーん」
 わたしの頬はますます火照っていることだろう。この調子じゃあ、熱は治らないと思う。
「先輩……恥ずかしいです」
「でもなぁ、慣れてもらわないと……。桜は三日間動けないんだから」
 ああ、極楽浄土のこの幸せは後三日間も続くそうです。

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 早いもので、わたしが風邪で倒れてから三日が経った。そして今日はバレンタインデー当日。体もようやく自由に動かせるようになり、誰の手も借りずに歩けるようになった。まだまだ、料理するには怖いのだが、今日は緊急事態だ。朝からライダーに手伝ってもらって先輩に渡すチョコレートを作っている。先輩はバイトに出かけているので今日はいない。いつもなら先輩がいなくて気分は最低なのだが、今日は楽しくてしょうがない。
「ねぇ、ライダー?先輩、おいしいって言ってくれるかな」
「サクラ……その言葉は聞き飽きました」
 もうお昼もとっくにまわっていた。普段であればほんの2・3時間あれば終わるような作業を朝早くからずっとこなしている。なにせ体が思うように動かないので、一つ一つの動作に時間がかかる。ライダーもチョコは作ったことがないということなので、作業は一向に進まなかった。
「間に合うかな?」
「もう仕上げなのですから、間に合わなかったらおかしいです」
 呆れたようにライダーがそう言った。確かにみんなに渡すメインのクラシックチョコレートケーキは、もう完成して後はラッピングをすればいい状態になっている。しかしながら、肝心の方はもう少し時間がかかる。
「あのね、ライダー。もう作業はだいたい終わったから部屋に戻ってもいいよ」
「……わかりました。サクラの邪魔をしないように部屋には戻りますが、くれぐれも危険な作業はしないでください」
「うん、大丈夫。ごめんね」
 ライダーはすばやくその場を立ち去ってくれた。そしてわたしは自分の作業に入る。ウオーミングアップはだいたい済んだし、これからがわたしの本番である。
「先輩、喜んでくれるかな?」
 これはわたしのおまじない。この呟きが、おいしい料理を作るコツなのだ。
「やっぱり、手作りのチョコを作らないとね」
 なんの変哲もない普通の生チョコレート。でも、湯煎のかけかた次第でわずかに味が変わってしまう。そんな、簡単にして奥の深い作業に没頭した。そして、あっという間に出来上がりハート型の型に流し込んだ。仕上げに、細く白い文字を描いて、冷蔵庫の中に入れた。あとは固まったらラッピングして先輩の帰りを待つだけだ。

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 時刻は22時を回ったところ、ライダーも自室に戻り居間にはわたし一人が残っていた。
《ただいまー》
 玄関から先輩の声がした。わたしは慌てて居間の外に出る。
「おかえりなさい。少し遅かったですね」
「ごめんな。結構忙しくてさ」
 今日はバレンタインだし、きっとオトさん目当ての男性客が沢山来たのだろう。
「ごはんを温めますね」
 先輩のために用意した夕食を手早く温めて食卓に並べた。
「これ、桜が作ったのか?」
「それが思うように体が動かせなかったので、ライダーにも手伝ってもらいました。このお味噌汁はライダーが作ったんですよ」
「へぇ。どれもなかなかおいしいぞ。今度ライダーにも感想を伝えないとな」
 あっという間に皿の料理はなくなっていた。三日ぶりのこの感覚に、涙が出るほどの感動がこみ上げてきた。
「ごちそうさま。おいしかった」
「お粗末様でした。先輩、食後にケーキはいかがですか?ライダーと二人で作ったんです」
 そう言ってわたしは切り分けたケーキの一角を先輩に渡した。
「うん、おいしいぞ。二人の気持ちが伝わってきて嬉しいよ」
 少し悲しげに先輩は、そう感想を言った。わたしはもう一つのラッピングしたチョコレートを取り出した。
 わたしはその小箱を、先輩にそっと手渡した。
「桜、これは……」
「わたしが一人で作りました。先輩のためだけに作った、バレンタインの贈り物です」
 今年は渡せないと思っていた。でも、ライダーや姉さん、そして何より先輩の支えがあって風邪の治りも順調に進んだ。そして今日、先輩にバレンタインチョコを渡すことができた。
 先輩が箱を開けてハート型のチョコを取り出した。

《大好きです》

 わたしがチョコに乗せた言葉だ。その言葉に、そのチョコに、わたしの気持ちは集約されている。先輩は、わたしにとって誰よりも大切な人。この三日間で、より深くそのことを実感した。
「俺も桜のことが大好きだよ」
 そう言って先輩は軽くわたしの唇にキスをしてくれた。甘い甘いチョコの味がした。
「先輩、わたし本当に幸せです」
「俺もさ。これからもずっと一緒に沢山の思い出を残して行こうな」
 聖杯戦争前までの絶望に打ちひしがれていたわたしが嘘みたいだ。今はこんなにも、希望に満ちている。
「先輩、味はどうでしょうか?」
「うん、幸せな味がする」
 もう、わたしにかつての面影はない。わたしは自分自身の手で、幸せな未来に向かって歩き出している。先輩と一緒に……。
「ところで桜、この紙はなに?」
 先輩は、箱の中に入れたチョコの包み紙に書かれた文字を読んでいる。
「えと……バレちゃいました?」
「桜……これは反則。きっと今日の俺は止められない」
 包み紙にはこう書いた。
《今日はわたしがチョコレートです》
 小さな文字で書いたのに、先輩は見逃さなかったらしい。
「先輩、味はどうでしょうか?」
 先輩はわたしの突拍子もない質問にこう答えた。
「食べてみないとわからないな」
 そうしてわたしの長い夜は始まりを告げた。

 Fin

 

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