「美綴、お前まさか……」
「ここはどこなんだ?あたしはどうしてここにいるんだ?」
  美綴が冗談を言っているようには見えない。知らない世界に連れて来られたかのような反応。困惑を隠し切れていない。
「美綴、俺のことが分かるか?」
「……知らない」
「綾子、わたしは?」
「……分からない」
「じゃあ、自分の名前はわかる?」
「………………」
  美綴の沈黙が全てを物語っていた。
「……恐れていた事態だわ」
「どういうことなんだ、遠坂?」
「記憶喪失よ。それも一時的な記憶の混乱ではないわ。魂の磨耗による記憶の欠如ね」
  記憶の欠如。遠坂の言葉が意味するのはつまり……。
「もう綾子に今までの記憶が蘇ることはないわ」
  俺は遠坂の言葉を理解することができなかった。いや、理解しようとすることすらできなかった。
「……嘘だろ。だって、ちゃんと言葉を喋っているじゃないか」
「脳には全く異常はないのよ。魂が欠損し、記憶が欠如してしまった。自分の名前すら思い出せない状況を考えると綾子の記憶は全て消え去ったと言ってもいいわね。記憶だけがなくなってしまった。それだけだわ」
  遠坂は『それだけ』と言った。確かに、事実としては『美綴が記憶喪失になった』。美綴は美綴のまま、記憶だけをなくした。それだけの話かもしれない。しかし、美綴が美綴として生きてきた17年間がなくなってしまったのだ。裏を反せば、美綴の記憶は全て失われ空になったということ。言葉が話せる赤子の状態。美綴は生まれ変わってしまった。
「もう美綴の記憶は決して戻ることはないのか?」
「ええ。魔法でも使わない限り戻ることはないわ」
  魔法と魔術は大きく異なる。ここで遠坂が魔法をつかったのはつまり……。
「不可能ってわけじゃないよな……」
「限りなく不可能よ!」
  遠坂は俺の言葉を遮るように言い放った。魔術師として優秀な遠坂は、俺以上に状況を把握している。それ故、俺以上に心を傷めているだろう。遠坂は魔術師として普通人とはできるだけ関わらないようにしていると言っていた。そんな遠坂にとって、唯一と言ってもいい友人が美綴なのだ。遠坂が辛くないわけがない。いくら魔術師然としていても、人の心の大切さをよく知っている遠坂だから。
「取り乱して悪かった、遠坂」
  俺が騒いだところで状況は何一つ変わらない。遠坂との対話でそれを理解した。
「謝るなら綾子に謝りなさいよ」
  記憶喪失になって、最も困惑しショックを受けているのは、美綴本人だ。残酷な事実を次々と突き付けられる美綴の苦悩を思えば、俺たちが取り乱してはいられない。
「美綴、悪かった。お前の気持ちも考えずに勝手なことを言って」
「いや、構わない。寧ろ、あたしの友人として心配してくれたのであれば嬉しい。ただ、あたしには二人の会話を聞いていてもあたしが記憶喪失になったことぐらいしか把握できなかった。あたしが何者なのか、あんたたちは誰なのか、そしてあたしはどうして記憶喪失になったのか。説明してくれないか?」
「ああ、辛いとは思うが聞いてくれ」
  そして俺たちは、美綴に詳しく説明をした。
 
 
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