冬の冷たい風が身に染みる。痛みを伴うその寒さは、外気に晒されるだけで苦痛である。その中で、顔色一つ変えず、弓を構え矢を放つ一人の女性の姿があった。
  俺は美綴綾子に見惚れていた。美綴は精神を統一し、自己の世界に入り込んでいる。
射法八節に則った美しい姿勢。

 足踏み・胴造り・弓構え・打起しと流れるように体勢を作る。引分けで弓を押し弦を引いた。会で引分けは完成し、離れで弓が放たれる。矢は的の中心に命中している。いや、矢が的に当たることは予め決まっていたのだ。矢を放つ前から。
 それは美綴の残心が物語っていた。
「……美綴」
  美しい射だった。こんな射ができるのは美綴の他には一人しか知らない。
「まるで俺の射を見ているかの様だったよ」
  非の打ち所がない完璧すぎる射。百発百中が運命づけられた究極の射だった。
「……衛宮。これって夢じゃないのか?」
  弓道を極めんとする者が見れば、美綴の射は褒め称えられるだろう。魅了の魔術が込められているかのような恐怖すら感じる美綴の出で立ち。しかし俺には、そんな美綴が脆く儚く見える。今にも消えてしまいそうな蝋燭に灯る小さな火。一息で吹き消えてしまいそうでなお存在感を放つ美綴の姿に俺は見惚れていた。
「ああ。現実だ、美綴」
「現実か。じゃあ、あたしはもうすぐ消えてなくなるんだな」
  ああ、今の美綴はどこまでもアノ時の俺に似ている。今でも夢に見るアノ時の記憶。人間の泣き叫ぶ、呻き苦しむ声しか聞こえなかった十年前の火災現場。俺は一面炎という地獄の中で、諦観していた。
『俺はもう消えてなくなるんだ』
  一つ一つと俺の短い人生の記憶が走馬灯のように思い出され消えていった。もう何も残らない。そう思った瞬間だった。
  俺は、男の背中に背負われていた。そして、気づけば病室で仰向けになっていた。士郎という名前と火災の恐怖だけを残して、俺の記憶は消え去っていた。
 今の俺は、アノ時の俺が残した副産物。衛宮切嗣が成しえなかった『正義の味方』の意志を継ぐ者にすぎない。俺はアノ時全てを失い、切嗣だけが俺の全てになった。
 今の美綴は、自分が消える恐怖と戦っている。薄れていく自我を必死に食い止めようとしている。
「なぁ、衛宮」
  静寂に包まれた弓道場に、美綴の声が響く。
「最後に衛宮の射が見たかった」
  そう言い終えると美綴は崩れ落ちた。

 美綴を支えていた燈が儚く消えた。

 美綴はバタンと床に倒れこみ、動かなくなった。
「遠坂!!」
  入り口で控えている遠坂を大声で呼んだ。
「……何があったの?綾子、突然倒れたじゃない」
「ああ、意識が薄れていたみたいだけど、ついに限界を迎えたみたいだ」
「…そうね。魂が消えかけているわ」
  やはり、俺の推測は的中していた。美綴は、自我が消えていく中で、自我を確かめようと弓道場に来たのだろう。
「なんとかなるのか?」
「わからないわ。とりあえず、宝石を飲ませるしかないわね」
  遠坂は、赤く小さな宝石を取出し美綴の口に含ませた。
「まだ少し意識はあるみたいね。飲み込んだわ。あとは祈るしかないわね」
「セイバー、美綴を家に運んでくれるか?」
  四階でキャスターの身代わりを倒したセイバーは、弓道場に向かう俺たちと合流し、遠坂とともに入り口で控えてくれていた。
「はい。シロウの部屋に休ませればいいですか?」
「ああ、頼む。俺は遠坂ともう少し学校に残る。生徒はまだ息があったようだし、教会に連絡すればまだ間に合うはずだ。だよな、遠坂」
「ええ、綺礼に頼めば巧くやってくれると思うわ。やけに落ち着いているわね衛宮くん」
「死体には慣れているんだ」
  笑えない自嘲。遠坂とセイバーは俺を不思議な目で見ている。
「いくぞ、遠坂。美綴をお願いな、セイバー」
  俺はそう言い残し、校舎に戻るため歩きだした。

 

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