「お兄ちゃん、そろそろバイトの時間だよ」
 わたしの名前は朝霧麻衣。わたしが声をかけた相手は、わたしのお兄ちゃん兼恋人の朝霧達哉である。
「そうだな。じゃあ、そろそろ行くか」
  お兄ちゃんはそう言うと、ソファーから立ち上がった。お兄ちゃんをよく見ると、手に皮の手袋をしている。
「お兄ちゃん、その手袋……」
「ああ、すごく気に入ってるんだ」
  その手袋は、この前一緒にデートに行ったときに買ったものだ。お兄ちゃんが手袋がほしいと言ったので私が選んだものだった。
「お兄ちゃんが手袋を大切に使ってくれるのは嬉しいんだけど、やっぱり家の中とかバイト中にも手袋をするのはおかしいよ。菜月ちゃんも、お客さんに失礼だからバイト中は外してほしいって言ってたよ」
  菜月ちゃんとは、隣に住む、わたしとお兄ちゃんの幼なじみである。菜月ちゃんのお父さんの鷹見沢左門さんはイタリア料理店『トラットリア左門』のオーナーで、お兄ちゃんと菜月ちゃんはそこでウェイターのバイトをしているのだ。
「そうかもな」
  お兄ちゃんはここ最近、ずっと手袋をしている。わたしがそれを注意しても、今みたいにはぐらかされてしまう。                   
「もう。少しはわたしの話を聞いてよ!」
「悪い麻衣。話は後な。もうバイトが始まっちゃうからさ」
  お兄ちゃんはそう言うと、逃げるように去ってしまった。
「本当にどうしちゃったんだろ。お兄ちゃん…」
  手袋に限らず、最近のお兄ちゃんはなんかおかしいと思う。それに、ここ一週間はお兄ちゃんが笑ってるところを見ていない気がする。
「お兄ちゃん、わたしのことが嫌いになっちゃったのかな」
  最近のお兄ちゃんの態度は、どうもよそよそしい。それになんだか避けられているような気がしてならなかった。
「…このままだとダメだよね」
  わたしは、強い決心を胸に家を後にした。

 

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